美々津から出征したイワレビコ(神武天皇)は、豊国(大分)、筑紫(福岡)、安岐(広島)、吉備(岡山)、浪速(大阪)と、船団を進めていきました。
当時の浪速(大阪)は、生駒山の手前まで海(河内湾)だったため、船で進軍することができました。でも、潮流が激しく(浪が速く)、かなり手こずったようです。
生駒山を越えれば、目的地の大和(奈良)です。しかし、ここで大和の豪族・ナガスネヒコの軍勢と戦闘になり、退却せざるを得なくなります。
手痛い敗北を喫したイワレビコは、別のルートを求めて紀伊(和歌山)の海路を迂回しますが、イザナミの墓と言われる花の窟神社を過ぎたあたりで暴風雨に見舞われます。
これにより船団は壊滅し、イワレビコは熊野から続く陸路(山道)で、大和入国を目指すことになります。
その際、タケミカヅチの神剣・フツノミタマを預かったタカクラジの助力や、熊野権現の神使(じんし)であるヤタガラスの導きを得たとされています。
イワレビコは、熊野権現が降臨したとされる、天磐盾(あまのいわたて)にも登っています。天磐盾は神倉神社(かみくらじんじゃ)の御神体で、ゴトビキ岩とも言います。
神倉神社から約1km離れた所に、熊野三山の一つ、熊野速玉大社(くまの はやたま たいしゃ)があります。
社殿の創設は第12代・景行天皇(けいこう てんのう)の時代なので、神倉神社を元宮(もとぐう)、速玉大社を新宮(しんぐう)と呼ぶそうです。
ここから約600m離れた所に、神武天皇・仮宮殿跡とされる渡御前社(わたり ごぜん しゃ)があります。
熊野速玉大社から約20kmほど離れた山中に、熊野那智大社(くまの なち たいしゃ)があります。
記紀によると、イワレビコが那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧を探り当て、神として祀ったと記されています。
今でこそ熊野三山の一つに数えられていますが、元は那智の滝から始まった古代山岳信仰の行場であり、水系パワースポットの最高峰です。
熊野那智大社から熊野古道・中辺路(なかへち)を約40km歩いた先に、熊野本宮大社(くまの ほんぐう たいしゃ)があります。
元は熊野川の中州、大斎原(おおゆ の はら)に本殿がありましたが、明治時代の水害で殆どの社殿が流されてしまい、現在地に移転することになりました。
御祭神の家都美御子大神 (けつみこ の おおかみ)はスサノオと同神で、この地が荒れているのを嘆き、自ら木を植えたことから、木の国(紀伊ノ国)になったのだとか。
ナガスネヒコに敗れ、熊野で暴風雨に遭い、同行した四皇子の兄も全員亡くなるなど災難続きのイワレビコでしたが、このあたりから神々の助力を得始めます。
記紀神話では、険しい熊野山中で進退窮まった時に、霊夢によりアマテラス(もしくはタカミムスビ)からヤタガラスを遣わされたと記されています。
また、奥熊野と呼ばれる玉置神社の玉石社に神宝を置いて戦勝祈願をしており、イワレビコは徐々に神道の祭祀王(さいし おう)らしくなっていきます。
個人的には、熊野詣(くまの もうで)は熊野権現の加護だけでなく、神武天皇の足跡を辿ることで皇祖神・アマテラスの加護も得る、優れた巡礼の旅だと思っています。
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