メンター(指導者)の選び方

コラム

殆どの人は聞いたことが無いと思いますが、仏教には辟支仏(びゃくしぶつ)という言葉があります。

辟支仏とは、誰からも仏教を学ばず、自力で無我という真理を悟り、誰にも教えを説かずに独りで悟境を楽しむ聖者のことを言います。

辟支仏は十二因縁によって悟ることから縁覚(えんがく)と呼ばれたり、無師独悟することから独覚(どっかく)と呼ばれることもあります。

 

昔から賢者や覚者は人里離れた所に隠棲するものですが、本当に徳が高い人は周囲が放っておかないので、渋々人前に出て教えを説くようになります。

でも、辟支仏(縁覚・独覚)は徳が高くなかったり、人に教えを説くのが下手だったりするので、あまり人に慕われず、歴史にも名が残りません。

全くの自力で悟りの境地に至るのですから、明らかにその道の天才なのですが、天才ゆえに社会に馴染めないという事もあるのです。

 

今はインターネットがあるので、辟支仏もブログやサイトで、自分なりに教えを説くことが増えました。

その中にはビジネスとして教えを説いたり、人を集めてイベントをするなどして、かなりの成功を収めている人も居ます。

収益が出なければ、場所を借りて人を集めたり、プロとして必要な勉強を続けられなくなるので、それ自体は良いことだと思います。

 

仏教の僧侶も教えを説きますが、話の内容はスピリチュアルの方が分かり易いし、面白いので、最近はお坊さんとスピ系の辟支仏がコラボすることも増えました。

しかし、人を導く為に厳しい修行をしてきた僧侶と、ビジネス目的で起業した辟支仏では、知識の量と実力が違います。

なので、集客は辟支仏に任せて、教えるのは僧侶が担当するという組み合わせが、最も安定するような気がします。

 

個人的にヤバいな~と思っているのは、ビジネス目的の辟支仏が、単独で公演などをしているケースです。

このケースだと、霊能者や、占い師、新興宗教の教祖と大して変わらないので、いつカルト化するか分かったものではありません。

教えの内容は変わらなくても、資金繰りが苦しくなれば、次第に阿漕(あこぎ)な商売に手を染めざるを得なくなります。

 

メンターとのサットサン(真理の交流)は、自身の霊性を高める為に必要ですが、必ずしもメンターが商売上手とは限りません。

それに、学ぶ側もネット上で断片的な情報を集めるだけでは、ただの情報コレクターで終わってしまいます。

何故なら、対価を払わずに学んだものは、決して身に付かないからです。例えスピリチュアルというジャンルであっても、タダより高いものは無いのです。

 

昔の禅僧は、師を求めて行脚(あんぎゃ)したそうですが、結局、一生旅を続けても良い師と出会えなかった人の方が多いと聞いています。

でも、インターネットを駆使すれば、昔よりは師と出会える可能性が高くなります。こういうことが出来るのが、ネット時代の強みです。

出来ることなら、自らが属するグループソウルのメンバーの中から、メンターを選べると良いですね。

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