悲劇に酔う

コラム

世の中には、自らの不幸を嘆いてばかりいて、幸せになる為の努力をしなくなっている人が居ます。

本当に辛い経験をすれば、誰だって行動する気力が湧かなくなります。でも、不幸に浸る期間が長くなるほど、人生そのものが不幸になっていきます。

でも、不思議なもので、不幸な一生を嘆いていると、何となく報われた気持ちになるんですよね。

 

何故、そのような気持になるのかと言いますと、それは人生を運任せにしていて、運勢に全責任を転嫁しているからです。

不幸を嘆く人の根底には、必ず「運が悪いのは私のせいじゃない、私は悪くない」という自分勝手なロジック(論理)があります。

つまり「努力はしたけど報われなかった」と、自分で自分を慰めながら、他の何か(誰か)を責めているのです。

 

他人の所為で不幸になった時は、怒りや、恨みの感情が出るものですが、集団、組織、社会、国と単位が大きくなるにつれて、無力感の方が強くなっていくものです。

その無力感から目を逸らす為に、不幸をアピールして味方を増やそうとしたり、誰かが作った対抗勢力(群れ)に参加する人も居ますが、その先にあるのは自己喪失です。

被害者ぶって駄々を捏ねていれば、そのうち優しい誰かが助けてくれますが、その代わり自己成長の機会を逃すことになります。

 

霊性が低い人は、人生の早い時点で「なりふり構わず駄々を捏ねれば、ワガママが通る」と学習しています。

でも、個人の力が試される場面では、自己の無力さを思い知り、責任転嫁と自己憐憫に耽(ふけ)るしかなくなります。

霊性の高みを目指すなら、責任転嫁と自己憐憫に耽ることをやめて、自分にできることを増やす努力をすることです。

 

できることを増やす努力を欠かさなかった人には、神仏や自然霊が手を貸してくれたり、何らかの役目を与えてもらえることがあります。

人間社会で認められるには、単に数字を出せば良いだけですが、高次元の世界で認められるには、霊性を高めるしかないのです。

積み上げた努力が、望んだ形で報われるとは限りません。でも、霊性を高める努力は、必ず何らかの形で実を結びます。それが因果というものです。

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