人間社会とは、ままならないものです。みんながみんな、日々の糧を得るために奔走し、時には生きるために我を張ったり、保身に走ったり・・・。
そんな中でも、霊性が高い人は「善く在ろう」と気高く踏ん張り、霊性が低い人は「世の中、悪い奴が勝つ」と嘯(うそぶ)いて、楽な方へと転がり落ちていきます。
その姿を見るにつけ、清く、正しく、美しい世界を望む気持ちは強くなっていくものです。
世界そのものを平和にすることはできなくとも、せめて自分の手が届く範囲くらいは良くしたいと考えるのは、みな同じです。
その為の方法は色々ありますが、その中でも最も簡単で、最も効果的な方法が、雑宝蔵経(ぞう ほうぞう きょう)に記されている無財の七施(むざい の ななせ)です。
その施(ほどこ)しの内容は、優しい眼差しと、笑顔と、言葉、席を譲るような思いやりの心と、行動、疲れた人に休む場所を提供することとされています。
仏教用語だと、眼施、和顔悦色施、言辞施、身施、心施、牀座施、房舎施となりますが、私たち日本人にとっては、割と普通のことだったりしますよね。
でも、この教えは、上記の事柄が普通になる前の時代に、頻繁に抗争が行われる土地で説かれたものです。だからこそ、尊い教えなんですよ。
施しを施しとすら思わない無心の施しと、それを享受できる感謝の日常は、当たり前のようで、当たり前ではない、まことに尊い日常なのです。
無財の七施を実践していくと、思うようにならない苦しい日々を送りつつも、最後は感謝しかないと気づかせられる日が来ます。
実際、エゴを手放すと、感謝しか残らないんですよ。何故なら、物事を「苦」と捉えるのは、エゴの働きだからです。
エゴは生存のために「苦」を遠ざけ、「楽」を求めるのが常ですが、エゴのままに生きる人が増えれば、世の中は思いやりの欠片も無い、戦乱と収奪の地獄と化します。
「長生きしたい」という欲は生物の本能ですから、それ自体を否定しても始まりません。でも、生存本能のせいで視野が狭くなるのも、また事実です。
金品は私たちの生命を支えるものであり、財産が多ければ多いほど死の恐怖を遠ざけて、安心することができます。
でも、財産に執着すれば、より大きな「苦」を生むことになりますし、そもそも人としての幸福や豊かさは、血染めの手で掴み取るようなものでもありません。
情けは人のためならず。
施しとは、自身のエゴと、幸福や、豊かさの本質を知るための行いです。そして、それが分かれば、本当の意味での大儲けなのです。
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