差別の心

コラム

私たち人間は、生きる為に他の生物を捕食しています。それは他の生物も同じであり、この世から食物連鎖を無くすことは出来ません。

捕食するには、まず食べられるか否かを判断する能力が必要となり、アメーバのような単細胞生物にも、その判断能力が備わっています。

知能が高い生物は、この判断能力を発展させて、安全か危険か、自分より強いか弱いか、戦うか逃げるかの判断をしています。

 

我々人類は非常に高い知能を持っている為、物事の良し悪しや、正しいか間違っているか、優れているか劣っているかを判断する事が出来ます。

仏教では、この高度な判断能力を分別心(ふんべつしん)と呼んでいて、この世の全ての喜びと、苦しみの根源でもあると説いています。

また、分別心には比較によって判断するという特徴があり、比較の対象が無いと物事を把握したり、理解する事ができないという欠点があります。

 

物事を理解できないと、問題を解決する事もできません。その為、自分が損をしたり、心身が危険にさらされるというような、漠然とした不安を感じ始めます。

その不安を解消する為に、過去の経験や知識から比較の対象を引き出して、とりあえずの答えを出して安心しようとします。

誰もが納得するような答えを出せなかったり、他の人が全く違う意見を出してきたりすると、意見の衝突が生じます。

 

話し合いによって衝突を回避できれば良いのですが、双方が自分の正しさに固執したり、絶対に譲れないことがあると、やがて闘争に発展します。

闘争によって相手を力づくで黙らせても、黙らされた方は強い不満と怒りを持つ為、将来に禍根を残します。

禍根を残さないようにするには、キチンと話し合い、お互いが納得するような答えを出さなければいけません。

 

本来なら、話し合いによって他人の意見を知ることは、自分の視野を広げることにもなるので、とても良いことの筈です。

しかし、霊性が低い人は視野が狭く、自分の都合しか考えられないので、話を聞いても何の参考にもなりません。

このような人が相手では、お互いが納得するような答えを出すのは不可能ですし、そもそも話し合いの席につかせることさえ困難です。

 

分別心は生きていく上で必要なものですが、人種、性別、年齢、能力、職業などで差別をするのも分別心です。

しかし、分別心そのものが悪いのではなく、差別によって他人への攻撃を正当化することが悪いのです。

また、何でもかんでも「差別だ!」と喚き散らすのも違います。何故なら、人が人である以上、分別心を完全に抑え込むのは不可能だからです。

 

「差別をするな!」という言葉は正しいように思えますが、実際には自分の事を棚に上げて、絶対に出来ない事で他人を責め立てているのと同じです。

ひょっとしたら、相手を言い負かしてマウントをとる為に、敢えて無茶振りをしているのかも知れませんが、どのみち理不尽な要求であることには変わりません。

人は誰しも、捕食や差別をせずには生きられない、悲しい生物です。その悲しみを理解することで、我々は慈しむ心を養えるのです。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました