善行と悪行

コラム

自尊心や、自己評価が低くて悩んでいる人は、他人を助けることで自分の価値を確認しようとします。この心理を、メサイア・コンプレックスと言います。

メサイアは救世主、コンプレックスは劣等感という意味です。

要するに、善人が人助けをしているように見えても、実は劣等感から自己満足的な行動をしているだけというケースがある訳です。

 

「やらない善より、やる偽善」という言葉がコンセンサス(合意)を得ていますが、偽善はどこまで行っても偽善なので、しないに越したことはありません。

何故なら、人間は「これは善行だ」と思った途端に反省をしなくなり、責任を取らなくなるからです。

真の善行とは、単に他人を助けることでは無く、他人の霊性を向上させることです。ですから、結果が出るまで善悪のどちらに転ぶかは、誰にも分かりません。

 

数奇な運命により、善行のつもりだったのに、結果を見れば悪行だったということは普通にありますし、その逆も然りです。

大切なのは、行動する前に責任を取れるかどうかを確認することと、どちらに転んでも責任を持とうとすることの2点です。

基本的に、この2点を守れそうにない事柄には、手を出すべきではありません。

 

とは言え、自分の手に負えないとか、手を出すべきではないと判断した時でも、行動せざるを得ない状況もあります。

そういう時は信念をもって行動し、最後まで自分に出来ることをやり通すしかありません。そうすれば、少なくとも後悔だけはせずに済みます。

私たちが運命と呼んでいる世界のシナリオは、個人の人生や感情を超えています。だからこそ、時には全く望まない嫌な役割が回って来ることもあるのです。

 

運命を受け入れるか、拒絶するかは、その人の信念次第です。この場合は、どちらが正しいのかと悩むより、潔く自分の信念に殉じましょう。

でも、その信念が劣等感の影響で歪んでいたら、自分や他人の霊性を高める結果には繋がりません。

世の中には、問題児を甘やかして自立を妨げる人や、とりあえず謝っておけば間違いはないと言う人が居ますが、そのような考え方は決して良い結果をもたらしません。

 

善行や悪行は、立場や視点が変われば、逆転する可能性があるもので、この世のあらゆる見解は「そう見ることもできる」というだけのものに過ぎません。

つまり、この世に絶対善や、絶対悪は存在しないのです。人は誰しも絶対的なものを求めてしまいますが、それはいくら求めても絶対に得られない妄想の産物なのです。

因みに、仏教では「あらゆるものに我(が)は存在しない(諸法無我)」と説きますが、この我とは「独立単体で存在する絶対的なもの」という意味です。

 

「自分は絶対に正しい」とか「あの人は絶対に間違っている」と考えているうちは、無我という真理に手が届くことは無いと心得ましょう。

 

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