修行とは、悟りを求めて仏教を実践し、心身を鍛えることを言い、修業とは、自分の夢や理想を実現するために、学問や技術を身に付けることを言います。
どちらも読み方は同じですが、言葉の意味はかなり違います。
修業は「私」から「公」に関心が移り、修行は「公」から「私」に関心が移ります。ですから、順番としては修業が先で、修行は後になります。
実際、確固たる「私」を完成させなければ、「公」的な活動をしようにも、何もできません。それは文字通り、修業が足らないということです。
修業は生活の地盤を築くためのものですが、それは社会の荒波に揉まれて、人生経験を積むことでもあります。
その修業が足らないと、修行の道に入ることさえできません。僧侶や神官の修行が大変なのは、これまでの修業を見極める意味もあるのです。
社会の荒波に揉まれるのは辛いことですが、この辛い経験なくして、他者の苦しみに共感することはできません。
共感は慈悲を生じさせ、大いなる慈悲は、不屈の求道心(ぐどうしん)を生じさせます。
求道心は、理不尽な社会への義憤でもあり、それは平和への祈りに通じます。
平和への祈りは、この世の真実と、本当に正しいことを求めさせます。そして、その答えは己が心の内にあるのです。
仏教経典に「人生の答え」は記されていません。記されているのは「答えの出し方」であって、答えそのものではないのです。
修業が足らない人が、経典を読んでも何も得られないのは、そのためです。
例えば、般若心経の意味を勉強して、100%理解したとします。でも、それだけでは悟れません。
頭では色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)と分かっても、心はなかなか納得してくれないのです。
コップの中の水が、温かいか、冷たいかは、触れてみるまで分からないように、心を納得させるには、実際に真理の世界を体験する必要があります。
でも、いくら推測を重ねても真理は理解できませんし、その世界は五感や超能力、坐禅や瞑想によって体験するようなものでもありません。
また、体験した真理は、言葉で表現することができません。言語化自体はできるのですが、言語化された真理は真理そのものではなく、全くの別物になってしまうのです。
無我という真理をいくら言葉で説明しても、聞く人に無我を体験させることはできません。できることと言えば、有我という迷いを論破してあげることくらいです。
釈迦世尊は対機説法(たいき せっぽう)を重視したと言われていますが、それは人によって抱えている迷いの形が違うからです。
これまで積んできた修業や修行が違えば、必然的に迷いの形と、目覚め方も違ってきます。
悟った人が身近に居れば、サクサクと迷いを論破してもらえますが、居ないなら自分で自分を論破するしかありません。
迷いが深ければ深いほど、自己論破の修行は複雑で苛烈なものになりますが、至る境地もまた深いものになります。
そして、迷いの深さは、共感と慈悲の深さであり、義憤と求道心の強さであり、祈りと願いの裏返しなのです。
悟りとは、有我という迷いで成り立つ虚構の世界が崩壊し、無我に基づく真理の世界に立ち返ることに他なりません。
そして、真理の世界はワンネスであり、ノンデュアリティであり、あるがままの世界なのです。
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