結論から言うと、基本的に人間社会は上手く行きません。何故なら、人が人を完全に管理(コントロール)し、支配することは許されないからです。
故に、社会で生きるなら、他人が犯した過ちを水に流し、やや強めのストレスでも受け流す寛容さが必要になります。
寛容さとは、許容範囲の広さです。大抵のことはドンと受け止め、赦すのは、まさに愛の行いです。
社会とは、色んな考えを持つ人が集まり、それぞれの利害が交錯する場所です。その為、揉めごとは必ず起こります。
そのことをキチンと理解し、お互いを理解し、尊重し合い、寛大な態度で話を聞くようにすれば、言い合いにはなっても、ケンカにはなりません。
でも、世の中には「弱肉強食、ケンカ上等」という野蛮な人たちも居ます。この手の人たちが望むのは、話し合いではなく、罵り合いや、殴り合いです。
野蛮な人たちを排除すれば、敵に回すことになりますから、子供のようにあやして上手く使う方が利口です。だから社会は「猛獣使い」を求めているのです。
しかし、猛獣使いになる人は、野蛮な人たちに愛を行っている訳ではありません。それどころか、決して彼らに心を許さず、隙を見せないように気をつけています。
何故なら、野蛮な人たちには、愛は難し過ぎて、理解ができないからです。彼らに理解できるのは、「どちらが上か?」という序列だけです。
このことを理解すると、愛を知らない野蛮な人たちにも寛大になれます。だって、分からないものは、仕方が無いじゃないですか。
また、野蛮な人たちは、遊び半分で社会のルールを破りますが、それもルールが存在する理由が分からないからです。
野蛮な人たちは、ワガママ放題に生きてきた人たちでもあります。そんな彼らが知っているのは、暴力で他人に勝つ方法と、自分が損をしない取引の仕方くらいです。
こんな人たちを否定したくなるのは当然ですが、彼らよりも自分の方が賢いとか、格上だと考えると、自分自身の許容範囲が狭くなってしまいます。
許容範囲が狭くなると、自分自身にもダメ出しをするようになり、自縄自縛で苦しむことになります。
野蛮な人たちが存在することも、一旦は受け入れましょう。でも、彼らが他人を害したり、法に触れることまで許す必要はありません。
寛大さと、優しさを示すことだけが、愛の行いではありません。大切なのは、一線を引くことです。
愛を知る人たちと、野蛮な人たちは、決して共存できません。だからこそ、必要以上に関わらないという接し方を身に付ける必要があるのです。
社会はどうにもなりませんが、それはあなたの責任ではありません。だから「人は人、私は私」で良いのです。
中国道教の始祖の一人に数えられる荘子(そうし)は「君子の交わりは淡きこと水のごとし、小人の交わりは甘きこと醴(れい)のごとし」と言いました。
今も、昔も、これからも、愛を知る人たちは一線を引いた付き合い方を好み、野蛮な人たちは付き合いに甘酒のような旨味(利益)を求めることでしょう。
そういう所は変わらないし、変えられません。でも、変わらない理由が分かれば、寛大になれる気がしませんか?
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