かつて性交は子孫繁栄の神聖な行為であり、血縁が増えるのはめでたいことでした。そして血縁である家族、氏族は、お互いに助け合うのが当然でした。
しかし、今では性は秘めごとという扱いになり、血縁関係に縛られることを嫌がる個人主義者が増えてしまいました。
個人主義の社会は、実力主義の社会になる為、相互扶助の精神よりも、自己責任論の方が優位になり、貧富の格差や少子高齢化が加速していきます。
性が秘めごとになったのは、欧米諸国の「純潔」という概念が世界中に広まったからです。その所為で、性は「不潔」なものという扱いになってしまいました。
世界中で性的なものを禁止したり、排除する運動が起きるようになれば、性に嫌悪感や罪悪感を抱く人も出てくるようになります。
性に嫌悪感や罪悪感を抱く人は、必要以上に性を神聖化して純愛を求めるようになり、結果的に性を楽しめなくなります。世界中でセックスレスが問題になっているのは、その為です。
性を嫌悪する人は、異性との出会いや、お付き合いが苦手になりますし、自分自身の男性らしさや女性らしさに磨きをかけることに抵抗を感じるようになります。
その一方で、男性らしい魅力や、女性らしい魅力を持つ人に嫉妬したり、劣等感を抱くようになるので、徐々に心が荒んでいきます。このような精神状態では、幸せな結婚などできる筈もありません。
いわゆる非モテの問題には、根底に性嫌悪があることを理解する必要があります。しかも性嫌悪は、教育という形で世代連鎖するのです。
性嫌悪症の病識が無い親は、我が子に性嫌悪を植え付ける毒親と化します。その動機は自らの性的欲求不満であって、我が子への愛情ではありません。
恋人との甘い交わりや、お互いを労わるような夫婦の営みは、人が生きるのに必要な栄養です。栄養失調の心では、自らの霊性を高めることもできません。
畢竟、純潔や純愛という概念は、性嫌悪が生み出した迷妄に過ぎないのです。元々無いものは、いくら求めても、決して得ることはできません。
性嫌悪を持たない人は、純潔や純愛などという迷妄に惑わされず、一期一会の出会いを大切にします。そして異性の容姿にも惑わされず、相性の良い人を選びます。
だからこそグループソウルのメンバーや、ツインソウルと出会い、性を思う存分に楽しむことができるのです。
大切な人と性を楽しみ、十全に心が満たされた人は、我が子に性嫌悪を植え付けたりはしません。そして正しく使われた性エネルギーは、その人に更なる霊性の高みを目指す動機を与えます。
そして、ある程度まで霊性を高めた人は、自らの性別に囚われなくなり、中性的な魅力と、丸味(まろみ)のある人格を持つ存在になっていきます。
大乗仏教の菩薩が中性的な姿をしているのは、その為です。
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